海外へ出れば、自動的に人生は変わる。そう思い込んでいた

【第2話】序章 ー プロローグ ー


大学卒業後間もなく、20代前半だった私は、本気でこう、思い込んでいた。

「日本の外へ出てみれば、何かが変わるはず。」
「今いる場所から抜け出せる。」
「もっと自分らしく生きられるようになる。」

そんな、大いなる期待を抱いていた。

今振り返れば、「フッ・・・」と鼻で笑うぐらい単純だったと思う。
けれど当時の私は、それほど切実であった。追い詰められていた。

大学では国際関係を学んでいた。
幼い頃、日曜日の朝に家族全員で楽しんだ、定番のテレビ番組は
「兼高かおる 世界の旅」
そんな私であったから、早くから世界の出来事に関心があったし、将来は何らかの形で国際的な仕事に関わりたいと、本気で思っていた。

また、高校生ぐらいの頃から、強い憧れを抱いていたのが外交官という仕事だった。きっかけのひとつは、小和田雅子さん ーー 現在の皇后雅子さまの存在だった。

私と同世代もしくはそれ以上の世代の皆さんは、当時の報道をリアルタイムで覚えておられる方も多いはず。
あの、世界を舞台に活躍される、颯爽とした姿は、当時の私にはとてつもなく眩しかった。

私も将来、あんなふうに、バリバリ仕事に打ち込みたい!

そんな思いから4年生の春、無謀にも外交官試験に挑んだ。

一次試験は奇跡的に合格。しかし、集団討論がネックだったのだろう。
結果は惨敗。人生にはよくある話なのかもしれない。

だが、問題はその後だった。
当時は、新卒採用そのものを見送る企業や団体多数。少し上の学年の先輩方とは大違い。時代の空気も決して追い風ではなかった。
慌てて、少しでも海外勤務とご縁のありそうな、他の民間企業の採用試験を受け始めたものの、思うように進まない。受けても受けても、結果が出ない。

199某年3月、まったく笑えない不安だらけの大学卒業式を終え、望みもしない就職浪人生活に突入してしまった私。
会場の日本武道館で、同じく就職浪人仲間となった友人たちとの集合写真に写る笑顔はどれも皆、引きつっていた。

実家に身を寄せ、ハラハラと散る桜を眺めながら、先の見えない毎日を過ごす。
またたく間に半年が過ぎ、夏が終わろうとしていた。

私の焦りと不安はピークになり、気づけば体重は10kg近く落ちていた。
別にうらやましくもないダイエットである。

Windows95が世に出て間もない、インターネット黎明期ではあったものの、当時の情報源は、まだまだ紙媒体が主流。
応募のタイミングを一つ間違えれば、まさに” 紙クズ “である。

それはさておき、あてになるかもわからない就職情報誌を片手に
私は相変わらず、血眼で企業訪問を続けていた。
静岡の実家から東京都内まで出かけていくことも珍しくなかった。

リクルートスーツ姿だけは一人前。
けれど実態は、結果の見えない、むなしい東京ツアーの繰り返し。

今でこそ中途採用や第二新卒という言葉は当たり前になったが、
当時は一度新卒採用のレールから外れれば、そこから人生を立て直すのは
容易なことではなかった。

そんなある日。
神田神保町あたりをあてもなく歩いていた私は、就職活動より先に
足にできたマメの痛みでギブアップ。
休憩がてら一軒の本屋へ逃げ込み、そこで、一冊の情報誌が目に留まった。

『海外就職ガイド』

正直、その時は特に目的があったわけではない。
ただ、うつろな気持ちでページをめくっていただけだった。
ところが、その中にあった一つの記事が私の目を引いた。

「オーストラリアで日本語教師アシスタント・インターン募集」
今の私なら、おそらくスルーである。けれど当時の私は違った。
不採用通知と門前払いの連続で、精神的にもかなり追い詰められていた。

もう、インターンでもいい! 飛び込み海外でもいい!
とにかく、どこかに自分の居場所が欲しかった。そんな思いで、
いっぱいいっぱいだった。

私はその場で雑誌を購入し、帰宅するなり応募準備を始めた。そして、その日のうちに応募ハガキを投函(まだ世の中に、”メール送信”という概念のない時代の、日本昔話です)。
今の若い人たちには想像もつかないかもしれないが、本当にハガキ一枚の世界だったのである。

もちろん、その時の私はまだ知らない。
その一枚の応募ハガキが、その後の人生を大きく動かすことになるとは。

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