応募ハガキを投函してから、およそ一週間後。
募集元の団体から一通の分厚い茶封筒が届いた。
ドキドキしながら、いそいそと封を開けると、応募受領のお知らせとともに、参加費用の案内やら、渡航準備に関する書類やらが
どっさり入っていた。今ならメール一通と添付ファイルで済む話だろう。しかし時は1990年代の真ん中あたり。
書類の束を前にした私は、「本当に行くことになったんだ!」と、ようやく現実味を感じ始めていた。
オーストラリアでの活動期間は約9か月。
現地の学校で日本語授業のアシスタントを務めたり、日本文化を紹介したりするのが主な役割だった。
それからというもの、私の生活は一変した。
母の友人が教えていた着物の着付け教室に通い、市民団体が主催する茶道や生け花の講習会にも顔を出した。
今振り返れば、就職活動というより花嫁修業である。
正直なところ、なぜそれでオーストラリアの学校現場に対応できると思ったのか、自分でもよく分からない。
それでも当時の私は真剣だった。
海外へ行く。しかも旅行では、ない。
そのために今できることは何でもやろうと無我夢中であった。
英会話教室にも通った。
大学時代に一部英語で授業を受けていたとはいえ、それと実際に英語圏で暮らし、しかも仕事の一翼を担うこととはまったく別の話である。
そして何より楽しみだったのが、現地のホストファミリーとのやり取りだった。もちろん、電子メールでは、ありません。お手紙です、ハイ。
今の若い世代からすると想像できないかもしれないが、当時はそれが普通だった。和英辞書を片手に英語の手紙を書き、返事が届くのを何週間も待つ。
今なら数秒で済むやり取りに、当時は何日も、何週間も心を躍らせていた。ホストファミリーから届く手紙を読むたびに、写真で拝見するファミリーのお姿を目にするたびに、
「もうすぐ本当にオーストラリアへ行くんだ!」
という実感が少しずつ湧いてきた。
就職浪人生活の暗いトンネルの中にいた私にとって、その半年間は久しぶりに未来に一条の光を見つけたひと時だったのかもしれない。
そして、あっという間に出発の日はやってきた。
翌年3月下旬の早朝。
私は早朝から、ガラガラと大きなトランクひとつを抱え、両親と妹に見送られ、別れのあいさつもそこそこに、あわただしく自宅を出た。
(この日のド緊張で引きつった私のすさまじい形相が、記憶にこびりついていると、今もって母からイジられております (-_-;))
大学卒業までずっと実家暮らしだった私にとって、親元を離れて暮らすのもこれが初めてだった。
期待と不安が入り混じる中、私は一路、成田空港へ向かった。
この時の私は確かに、新天地オーストラリアでの新しい生活に胸を膨らませていた。
まさか到着したその日に、人生で初めて「外国人として生きる」ということの意味を突きつけられるとは、
夢にも思っていなかったのである。
あれから30年後の今も、あの選択が正解だったかは分からない。
ただ一つ言えるのは、当時の私は、闇雲なまでに「正解」を探していたということ。
今の自分ならば、考え込まずとも経験則からこう即答する:
人生には、白だ黒だの正解よりも「自分の甲斐性で引き受けられる選択」の方が大切だと思う。
結果というものは、行動してみて初めて付いてくる。そしてそれは、後からしか、分からないもの。
それでも、自分で決めて前へ進んだ経験は、今現在の自分の全てをつくる原点になったことは、まちがいない。
(次回はいよいよ、オーストラリアはメルボルンへ到着。何が起こるやら・・・)

