【第12話】スワンヒルで見つけた、心の休日 ~外輪船Pyap号と、モーガン家で過ごした穏やかな時間~

 

第3の休日

これまでの語りだけを振り返ると、スワンヒルへやって来て以来、毎日が授業と教案作りに追われるドタバタの連続だったように見えるかもしれない。

けれども、平日5日間のうち、私が担当する日本語の授業が一コマも入っていない日があった。

それが、毎週水曜日である。

受け持ちクラスのあるケリーは当然出勤していたが、アシスタントだった私は学校へ行く必要がなかった。週末の土日に加えて、週の真ん中にも休める日がある。慣れない授業で気力も体力も消耗していた当時の私にとって、水曜日はまさに「第3の休日」であった。

朝、目覚まし時計を気にせず、ゆっくり眠っていられる。それだけでも、何よりありがたかった。

もっとも、活動を始めたばかりの頃は、せっかくの水曜日も朝から夕方まで自室にこもり、次の授業の教案作りに追われていた。

だが、ケリーから初めて合格点らしきものをもらい、授業を進めるコツも少しずつ分かりかけてきた頃、暗いトンネルの先に、ようやく一条の光が見え始めた。

――休むときには、思い切って休もう。

そう考えられるだけの心の余裕が、少しずつ戻ってきたのである。

マリアンヌと過ごした水曜日

そんなある水曜日、珍しくホストマザーのマリアンヌも休暇を取っていた。

二人で朝からのんびり過ごしていると、彼女が私に声をかけてくれた。

「ねぇ、Nao、せっかくの良いお天気だし、今日は買い物も兼ねて、二人でお出かけしない?」

「Wow、賛成! マリアンヌ、ありがとう!」

朝から青空が広がる、穏やかな一日だった。

マリアンヌが運転する車に乗り込み、私たちはスワンヒル市内中心部の小さなショッピングモールへ向かった。学校とモーガン邸を往復するだけの日々が続いていた私にとって、それは初めてゆっくりと町を眺める、小さな地元ツアーでもあった。

そして、この日マリアンヌが連れて行ってくれた場所が、後にスワンヒルでの私の大のお気に入りとなる、Pioneer Settlement(パイオニア・セトルメント)だった。

開拓時代へ迷い込んだような野外博物館

Pioneer Settlementは、リトル・マレー川沿いの広大な敷地に、19世紀から20世紀初頭にかけての開拓時代の町並みを再現した、スワンヒルを代表する野外博物館である。

展示品がガラスケースの中に整然と並ぶ、一般的な博物館とは少し趣が違う。

入り口を抜けると、土埃が舞う道の両側に、古めかしい商店や郵便局、鍛冶屋、印刷所、写真館などが立ち並ぶ。かつて農作業に使われた巨大な機械や農機具、馬車、年代物の自動車なども残され、まるで町全体が遠い時代から、そのまま取り残されたような風景が広がっていた。

店の奥から、昔の人々が今にも姿を現しそうな薄暗い室内。

風雨にさらされ、すっかり色あせた看板。

長い年月、人々の暮らしを支えてきたであろう、使い込まれた生活道具の数々。

それまで本や映画の中でしか知らなかったオーストラリアの開拓時代が、目の前に立体となって現れたようだった。

この施設の歴史は、1962年、地域の人々が大型外輪船PS Gemを購入し、その船を中心とした野外博物館を造ろうと考えたことから始まったという。

地元から古い建物や生活用品、農機具などが少しずつ集められ、1966年にSwan Hill Folk Museumとして一般公開。1970年にはエリザベス2世とフィリップ殿下が訪れ、翌1971年、Pioneer Settlementへと改称された。

私が初めて訪れた1997年には、開館からすでに30年以上が過ぎ、現在へと受け継がれている主要な町並みや展示物も、ほぼ整っていた。

私は建物の中を一軒ずつのぞき込み、昔の生活道具や農機具を眺めつつ、マリアンヌの説明を受けながら、ゆっくり園内を歩いた。

何より気に入ったのは、そこに流れている時間だった。

メルボルンのような都会的な華やかさとは正反対の、穏やかで、どこか懐かしい空気。

学校では、常に次の言葉や指示を考え、ケリーと生徒たちの反応に神経をとがらせていた。

けれどもPioneer Settlementを歩いている間だけは、そうした緊張から離れ、自然と肩の力を抜くことができた。

外輪船Pyap号へ

そして、この日とりわけ印象に残ったのが、外輪船Pyap号への乗船だった。

Pyap号は、1896年にサウス・オーストラリア州のマナムで、もともとは荷船として建造され、その翌年、外輪船として完成したという。

かつてはマレー川流域を行き来し、川沿いに暮らす人々のもとへ、食料品や日用品、衣類などを届けていた。いわば「川の上を走る商店」のような役割を担っていた船である。

1970年にPioneer Settlementへ移され、船体などの改修を経て、翌1971年から観光船として運航されていた。

私が乗船した1997年は、奇しくもPyap号が外輪船として完成してから、ちょうど100年目に当たる年だった。

もちろん当時の私は、そんな歴史など知る由もない。

ただ、目の前に浮かぶ古めかしい外輪船を見て、

―― ハリウッド映画でしか見たことがないような、こんな船に、本当に乗れるんだ!

と、胸が高鳴ったことはよく覚えている。

マリアンヌと一緒に船へ乗り込み、デッキから岸辺を眺めていると、やがてPyap号は、”ポーーーッ!”という汽笛とともに、ゆっくりと桟橋を離れた。

外輪が、”パッシャン、パッシャン”と、規則正しく水をかき分ける音を響かせながら、船は穏やかな川面を進んでいく。

岸辺にはユーカリの木々が並び、その向こうには、スワンヒルらしい平坦で広々とした風景がどこまでも続いていた。

デッキに立つと、川面を渡ってきた清々しい風が、頬を優しくなでた。

水面にきらきらと反射する日の光。

ゆっくりと後ろへ流れていく岸辺の景色。

一定のリズムで水をかく外輪の音。

平日は授業と教案作りに追われ、いつもどこか張り詰めていた私も、その風を浴びている間だけは何も考えず、深く息を吸うことができた。

メルボルンとも、日本とも違う。

ここには、スワンヒルだけに流れる、ゆったりとした時間がある。

この町へ来て以来、学校とホストファミリーの家を往復するだけで精いっぱいだった私が、スワンヒルという土地そのものを、初めて心から「いいところだな」と思えた瞬間だったのかもしれない。

マリアンヌに連れてきてもらった、この最初の訪問をきっかけに、Pioneer Settlementは、スワンヒルにおける私の大のお気に入りスポットとなった。

そこは単なる観光名所ではなかった。

慣れない学校生活からしばし離れ、遠い時代の町並みと穏やかな川の流れの中で、心を休ませることのできる場所。

私にとってPioneer Settlementは、スワンヒルで見つけた、小さな心の逃げ場所のような存在になっていったのである。

 

ホストマザーのマリアンヌの案内で、初めて訪れた日のパイオニア・セトルメント園内の様子

パイオニア・セトルメント園内に移築された、スワンヒル開拓初期に創業していたという歯科医院の診療所内の様子を再現したもの

 

残念ながら、外輪船Pyap号の全体を撮影した写真は残っていないのだが、マレー川を行く観光船は、このようなイメージ

 

「灯台下暗し」とはよく言ったものだ。

自分はこんなにも素敵な町で暮らしている。そのありがたみを、初めてしみじみと感じた地元ツアーだった。

パヴロヴァとマリア・カラス

帰宅すると、マリアンヌが得意のスイーツ、パヴロヴァを作ってくれた。

コーヒーと優しい甘さのパヴロヴァを午後のお供に、バックヤードの向こうに広がる牧場を眺めながら、二人でのんびりと女子トーク。

卵白の素材を生かしたデザートのパヴロバ(写真はイメージです)。 マリアンヌが作ってくれたのは、大ぶりなホールケーキのサイズだった

 

マリアンヌは、ご主人のジェラルドとの出会いや新婚時代のこと、もともとは別の町に住んでおり、スワンヒルへ引っ越してきたことなどを話してくれた。

当時、彼女は長男ダニエルを妊娠中で、つわりがひどく、「あの時はとにかく、引越しがとても大変だったわ!(笑)」と穏やかに笑っていた。

目の前の牧場では、ジャックをはじめとする愛馬たちが、のんびりと牧草を食んでいる。

リビングのステレオからは、小さな音量でマリア・カラスのソプラノが流れていた。

なんとも穏やかで、心の底から大きく伸びをしたくなるような午後だった。

どんな高級ホテルのサロンにも負けない、私にとって最高にぜいたくなアフタヌーンティーの時間であった。

また別の水曜日には、昼休みにたまたま帰宅していたジェラルドが、仕事着姿のまま、玄関先に設けられたグリーンで、パターの打ち方を教えてくれたこともある。

ジェラルドとマリアンヌ、そして三人の息子たち。実はモーガン家の面々は、全員そろってゴルフの腕前がシングルという、驚きのスポーツ一家でもあった。

日本の実家でも、父は愛車のトランクにいつもゴルフバッグを積んでいるほど、ゴルフをするのも見るのも好きな人だった。それなのに、娘の私が実際にゴルフクラブを握ったのは、後にも先にも、このスワンヒルでのひとときだけである。

ホストファーザー、ジェラルドの見事なスイング

続いて、見よう見まねで筆者の見事な?芝刈りスイング😂

モーガン家で初めての日本料理

メルボルンでお世話になったコマシュ家では、どう頑張って思い出してみても、私が和食を作った記憶がない。

そう考えると、ホームステイ先で初めて手作りの日本料理を披露したのは、モーガン家だったのだろう。

現在のように、インターネットで無数のレシピを簡単に検索できる時代ではない。私は日本を出発する際、何冊もの料理本を荷物に詰めてきていた。

巻き寿司、焼きそば、肉じゃがにみそ汁、黄金芋。

ときには、日本からお土産として持参した抹茶を使い、和風ババロアを作ったこともある。

抹茶ババロアは、当時の私にとって自慢のスイーツのひとつだった。

ジェラルドとマリアンヌは喜んで食べてくれたものの、三人の息子たちにとって、生まれて初めて味わう抹茶は、どうにも抵抗があったらしい。

なかでも忘れられないのが、長男ダニエルの反応である。

おそるおそる最初の一口を口に運んだ彼は、半分涙目になりながら、なんとも申し訳なさそうな表情で言った。

「ご、ごめん、Nao。やっぱり、これだけは僕、苦手で……」

こちらを傷つけまいと必死に気を遣う、その困り果てた顔があまりにも正直で、今思い出しても笑ってしまう。

一方、家族に最も好評だったのは、肉じゃがである。

当時のスワンヒルでは、日本食はまだまだ珍しい存在だった。だが、中華系住民の影響もあってか、しょうゆをベースにした味には、ある程度なじみがあったようだ。

牛肉、ジャガイモ、玉ねぎ、人参を、しょうゆ味で甘辛く煮込んだシチュー。

そのように考えると、彼らにも受け入れやすい料理だったのかもしれない。

初めて日本食の夕食を作った日には、炊きたての白米と一緒に、日本から持参した割り箸を食卓に並べた。

オーストラリアの家庭でも、料理によっては「Steamed Rice」が添えられることがあるため、白米そのものには抵抗がなかったらしい。

一家そろって慣れない手つきで箸を動かしながらも、楽しそうに料理を食べてくれた。

「Wow, it’s beautiful!」

現地では「おいしい」という意味でも使われる、そんな嬉しい感想をもらい、私はほっと胸をなで下ろした。

肉じゃがは、その後も6週間の滞在中に何度かリクエストされ、繰り返し作った覚えがある。

 

モーガン一家、初めての肉じゃが試食会の図。写真左から、ママのマリアンヌ、この日遊びに来ていたケリー、末っ子のジャロッド、次男のブレット、長男のダニエル、パパのジェラルド

別の日にチャレンジしてもらった日本食作り。焼きソバにトライする(私が仕上げた既製品 😅)ダニエル君

こちらはブレット君の巻き寿司づくりの様子。うちわを持つ手がなかなか様になっていた!

巻きすを操って、海苔巻きに仕上げる手つきも、お見事でした👍

日本食を囲んで生まれた笑顔

巻き寿司と黄金芋を作った際には、たまたまモーガン家を訪れていたケリーの提案で、学校にも少し持参したことがある。

9年生の授業を終えたあと、サプライズの日本食試食会を開いたのである。

生徒たちにとって、巻き寿司も黄金芋も、雑誌やテレビ、映画などでしか見たことのない、遠い世界の存在だった。

一口かじった瞬間、抹茶ババロアを食べた時の“ダニエル君状態”になる子が続出するのではないか??😅

私は内心、少々心配していた。

ところが、意外や意外。どちらも生徒たちには好評で、持参した料理はまたたく間になくなってしまった。

空になったタッパーを眺めながら、作った甲斐があったものだと、不思議な充実感を覚えたものだ。

このときの様子を写した一枚は、今も私の手元に残っている。

意外や意外、巻き寿司とスイーツの黄金芋が大好評だった、9年生の日本語授業後の試食会。ケリーが撮影してくれた思い出のショット。

 

日本語を教えることだけが、文化を伝える方法ではない。

同じ食卓を囲み、初めて見る料理に驚き、慣れない箸に悪戦苦闘し、ときには正直すぎる反応にみんなで大笑いする。

そんな何気ない時間もまた、私なりの小さな文化交流だったのだろう。

授業と教案作りだけで精いっぱいだった私に、スワンヒルという町の魅力と、生活を楽しむことを教えてくれたマリアンヌとジェラルド。

そして、私のつたない料理をいつも笑顔で囲んでくれたモーガン一家。

張り詰めていた心が少しずつほどけ、この土地での暮らしを「自分の日常」として受け入れ始めたのは、こうした穏やかな時間があったからに違いない。

(次回)

次に待っていたのは、モーガン家の愛馬ジャックとともに向かう、久しぶりの大都会メルボルンへの週末小旅行だった。

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