人生で初の異国で迎えた誕生日から、ほどなくしてのこと。
スワンヒルに、今度は日本から、思いがけないお客様がやって来た。
山形市長を団長とする「スワンヒル地方市友好代表団」の皆さんである。
その訪問をきっかけに、私は着物姿で“英語と日本語の間”を駆け回り、ついには市庁舎で開かれたレセプションの通訳まで務めることになるのだった。学生時代、夢破れながらも必死で目指していた「外交」の世界。
そこへほんの一瞬だけ、自分の足を踏み入れることになるとは、このときまで想像もしていなかった。
山形市とスワンヒルを結ぶ、長いご縁
スワンヒルは、日本とも意外に深いつながりを持つ町である。
山形県の県庁所在地である山形市とスワンヒル市は、1980年8月に姉妹都市の盟約を締結。1986年からは、中高生が互いの町を訪れ、ホームステイをしながら学ぶ短期交換留学も始まった。
1995年の行政区域再編によって、スワンヒル市は周辺地域と統合され、正式には「スワンヒル地方市」となったが、山形市との交流はその後も受け継がれている。
私が滞在していたこの年、山形市長を団長とする7人の友好代表団がスワンヒルを訪問。短期交換留学事業の継続や、「世界平和都市会議 in 山形」への招待などについて協議するとともに、現地の人々との交流を深めることになっていた。
そして思いがけないことに、私もその一連の歓迎行事へ参加させてもらえることになったのである。
ご縁をつないでくれたのは、活動先のM校ではなく、ホストファミリーのモーガン夫妻だった。
実は、ホストファーザーのジェラルドと当時のスワンヒル市長は親戚関係にあり、夫妻を通じて、私にもお声がけをいただいたのだ。
母から譲り受けた、鮮やかなピンクの着物
歓迎レセプションに先立って開かれた集まりでは、なんとモーガン邸も会場のひとつになっていた。
日本からの訪問団や現地の関係者が集まり、広い邸内はもちろん、バックヤードまで大勢の人でにぎわった。
オーストラリア人と日本人が入り交じって語り合う光景を前に、いつもは静かな家の中が、一夜にして迎賓館のように姿を変えた。
この日、私はあるサプライズを用意していた。
当時の私は、「日本文化を紹介する機会があるかもしれないから」と考え、日本から母のお下がりである着物一式を持参していたのである。
日本での出発前には、気合を入れて着付け教室にも通っていた。
結局、M校の授業で着物を披露する機会はなかったものの、まさかこのような国際交流の場で役立つ日が来ようとは。はるばる日本から持参した甲斐があったというものである。
私はホストファミリーにも知らせず、そそくさと自室へこもった。
そして習った手順を思い出しながら着付けを済ませ、鮮やかなピンク色の着物姿でリビングへ登場した。
「Wow, Nao!」😮
皆の驚く声が一斉に上がり、たちまち写真撮影の標的となった私は、あちらこちらから引っ張りだこに(笑)。
交流レセプション前夜祭会場となったモーガン邸で着物姿を初披露。モーガン家の末っ子ジャロッドとそのいとこに挟まれておすましな筆者
モーガン家の愛猫、ボニーちゃんと一緒に
左は前夜祭に駆け付けてくれた、山形への元交換留学生
山形からのゲストの皆さんとスワンヒルっ子たちとの間で通訳・交流に大忙し。本当に楽しい晩となりました!
英語と日本語の間を駆け回る
着物姿を披露するだけで、私の役目が終わったわけではない。
日本からのゲストと現地の人々が会話を始めるたび、私は即席の通訳として呼ばれ、モーガン邸の中を所狭しと駆け回ることになった。
もちろん、当時の私の英語は、今振り返れば決して流暢と呼べるものではない。
それでも、学校の教室で毎日のように英語を使い、生徒たちの反応を見ながら言葉を言い換え、何とか伝える訓練を重ねてきた。その経験が、思いがけない場所で力を発揮してくれたのである。
「着物姿もきれいで、英語もペラペラで格好いい。うらやましいです!」
日本からの皆さんにそのような言葉をかけられ、私はすっかり有頂天になっていた。
日本から来た方々の耳には、あの頃の私のつたない英語でも、一応「ペラペラ」に聞こえたのだろう。
29年後の今、当時の写真を眺めると、あのはしゃぎぶりには少々赤面してしまう。
それでも、学生時代から思い描いてきた自分の姿に、ようやく少しだけ近づけたような心持ちだったのだから、どうかご容赦いただきたい(笑)
花笠踊り、芋煮、そして餅つき
翌日は、朝から雲ひとつない爽やかな青空が広がっていた。
友好代表団を迎える盛大な歓迎レセプションが開かれ、私はモーガン夫妻と一緒に参加した。
会場は、マレー川を渡った対岸にある、Murray Downs Golf & Country Clubだったと記憶している。
クラブハウスを備えた広大なリゾート施設で、日本からの訪問団と地元のオーストラリア人が大勢集う、晴れやかな催しだった。
この日の公式通訳は、訪問団に同行していた日本人の方が担当していたため、私は一参加者として会場の一隅に座っていた。
冒頭の公式挨拶が終わると、会場の空気は一気に和やかなものへ変わった。
山形からの皆さんによる花笠踊り。
山形名物・芋煮の振る舞い。
そして、地元の人々も加わっての餅つき。
ジェラルドも杵を手に、楽しそうに餅をついていた。その様子を写した写真は、今も大切に残っている。
言葉も文化も異なる人々が、一緒に笑い、踊り、同じ料理を味わう。
「国際交流」という少々堅い言葉が、この日は目の前で、温かく、にぎやかな姿を見せてくれていた。
翌日朝のレセプション会場で。花笠音頭をご披露する山形使節団の皆さん
使節団の皆さんが振舞ってくださった、山形名物の芋煮に、スワンヒルっ子たちと笑顔で舌鼓
芋煮ランチとともに、恒例の餅つき。ホストファーザーのジェラルドも楽しそうに参加しました。
「Nao、通訳をお願いできるかい?」
楽しい歓迎行事を終えた翌日、さらに思いがけない依頼が舞い込んだ。
スワンヒル市庁舎では、山形市長をはじめとする訪問団と、当時のスワンヒル市長や市の関係者との協議が行われることになっていた。
その会議後のレセプションで、日英通訳を務める人が必要なのだという。
市長からの依頼を、ジェラルドが私へ伝えてくれた。
「Nao、レセプションで通訳をお願いできるかい?」
まさか、一介の日本語アシスタントである私に、そのようなお役目が回ってくるとは!😮
驚きはしたものの、断るという選択肢など頭に浮かばなかった。
その日の授業を終えると、私は急いで帰宅した。
今度は着物ではなく、用意していたビジネスジャケットに着替え、ジェラルドが運転するレンジローバーに乗り込む。
市庁舎へ近づくにつれ、胸の鼓動が速くなっていった。
夢破れた私が立った、最初で最後の大舞台
通訳を担当するのは会議そのものではなく、その後のレセプションだと聞き、いくらか胸をなで下ろした。
それでも、モーガン家でのにぎやかな集まりや、前日の開放的な歓迎行事とは、空気がまるで違っていた。
両市の行政関係者が集い、きちんとした服装で言葉を交わす、まさしく「外交」という言葉が似合う雰囲気に、自然と背筋が伸びた。
どのような会話を通訳したのか、まったく覚えていない。
ただ、日本とオーストラリア、双方の要人たちの間に入り、夢中で英語と日本語を行き来したことだけは覚えている。
相手の話を聞き、意味をつかみ、もう一方の言葉へ置き換える。立ち止まって悩んでいる暇などない。
教室で生徒たちを前に、必死で言葉を探し続けた日々の努力が、この大舞台でも私の背中を押してくれた。
無事に役目を終えると、会場に同席していたジェラルドが、我がことのように喜んでくれた。
「Nao、今日は本当にありがとう。素晴らしい活躍だったね!」
あの言葉を聞いたときの充実感は、今も忘れられない。
スワンヒル市庁舎で開かれた山形市議員団とスワンヒル市との公式協議にまさかの通訳として参加!実は今でも、このころの自信を取り戻したい自分がいます・・・
遠回りの先で、一瞬だけかなった夢
学生時代の私は、一途なまでに外交官になることを夢見ていた。
必死に目指しながらも、その夢はかなわず、卒業を前にして就職先すら決まらないまま、オーストラリアへ渡ってきた。
その私が、日本から遠く離れた小さな町で、二つの国を結ぶ言葉の橋渡しをしている。
肩書も資格もない。正式な外交官でも、プロの通訳でもない。
それでもあの夜の私は、自分が長い間思い描いてきた姿を、ほんの少しだけ実現できたように思えた。
夢は、思い描いたとおりの形ではかなわないこともある。
けれど、遠回りをした先で、まったく別の扉から、かつて憧れた景色へ連れて行ってもらえることもあるのだ。
スワンヒルへやって来たばかりの頃、教室で英語に詰まり、ケリーの厳しい指導に心をすり減らしていた私には、このような日が訪れるとは想像だにしていなかった。
モーガン夫妻がつないでくれたご縁と、教室での悪戦苦闘による努力が重なって生まれた、最初で最後の大舞台。
着物姿の即席通訳から、市庁舎のレセプションへ。
私が初めて草の根「外交官」になった数日間は、スワンヒルで少しずつ取り戻してきた自信を、確かなものへ変えてくれた。
そして、この華やかな出来事の直後、私はモーガン家を離れ、2軒目のホストファミリーのもとへ引っ越すことになる。
次に待っていたのは、笑い声の絶えない、なんとも愉快な一家との新生活だった。
(次回へ続く)

