【第9話】 午前3時完成の教案を胸に、初めての教壇へ ~駆け出し日本語アシスタント、出たとこ勝負の初授業!~

午前3時、ようやく完成した初めての教案

机の上の時計は午前3時にさしかかった。

今日の7年生の教案がひとつ、ようやく完成。力尽きてベッドへゴロンと横たわり、ほんの1~2時間の微睡みタイムの後、眠い目をこすりながら洗面所へ向かう。シャキッと冷たい水で顔を洗うと、再び気合いと緊張感がこみ上げた。

「よし!準備万端、今日はきっと大丈夫だ!」そう自分に言い聞かせ、午前7時半、マリアンヌの出勤時間と合わせ、彼女が運転する車で学校まで送ってもらう。

水色の空からやわらかい朝日が差し込み、牧歌的な片田舎の道はミレーの名作絵画「落穂拾い」を思わせる景色がどこまでも続く。

M校の校門前、車のドアを開けた瞬間、ひんやりと澄んだ空気を浴びると、いざ戦闘モードへ!

ケリーから受けた最初のチェック

8時ちょっと前、職員室の自分にあてがわれたデスクに着くやいなや、明け方まで必死で取り組んでいた教案を見返した。

ケリー先生からはどんな反応が返ってくるだろう?教案なんぞ生まれてこのかた作った経験も知識もなく、不安だらけ・・・いや、これだけじっくり丁寧に作りこんだ渾身の力作。

見れば見るほど、これで減点など出るはずはない!とか、頭の中ではごちゃごちゃといろんな思いが錯綜していた待ち時間20分は脅威的に長かった。

間もなく、私の左斜め後ろのデスクにケリー先生が出勤してこられた。

そしてややこわばった(そう見えただけかもしれない)表情で「Naoおはよう、早速だけど、今日の授業の教案はできてるかしら? Good morning, Nao. Let’s get straight to it—have you finished today’s lesson plan?」

朝の挨拶とよもやま話からの、和やかなコミュニケーションから・・・という私の期待はどうやら甘いものだったようだ。

インターンといえど、ここは“職場”。ホストファミリーとのやり取りとはわけが違う。
「おはようございます、Ms. Lennon、今日の7年生のクラスの教案はこちらですが、いかがでしょうか? Good morning, Ms. Lennon. Here’s my lesson plan for today’s Year 7 class. What do you think?」

相変わらず隙のない、きつい表情のまま、私の教案をひと通り確認すると、「うん、よくできてるわ。とりあえず、今日の授業はこれをベースに進めてみましょう。 Good. You’ve done a nice job. Let’s use this as the basis for today’s lesson and see how it goes.」
初のお題は、何とかお墨付きをいただいた。

まずは本日の第一関門突破。昨夜までの疲れが、ちょっとだけやわらいだ気がした。

するとケリーは、少し表情を緩めて付け加えた。
「And you can call me Kelly—you’re not one of my students, after all.」
「それから、私のことは“ケリー”でいいわよ。あなた、生徒じゃないんだから(笑)」

「Right……thank you, Kelly.」
「は、はい……ありがとうございます、ケリー」
そう答えたものの、私にとってケリーは、これから仕事を教わる立場の上司である。そんな相手をいきなり名前で呼ぶことには、どうしても抵抗があった。

オーストラリアのみならず、海外では、それがごく当たり前のことなのは、今現在の私ならば肌感覚で分かる。

それでも、当時の日本から来たばかりの私には、上司を名前で呼び捨てにすることが、ひどく馴れ馴れしいことのように思えてならなかった。
ほんの少しだけ肩の力が抜けたものの、やはりこの人からは、スワンヒル駅で出迎えを受けた初日から漂う、なにか張り詰めた壁のような空気を感じずにはいられなかった。

60以上の瞳が待つ7年生の教室へ

やがて授業の時間が近づき、ケリーが職員室を出た。

私は教案の詰まったファイルを、お守りのごとく胸に抱え、彼女の少し後ろを歩きながら、初めて授業を行う7年生の教室へ向かった。
廊下を進むにつれて、心臓の鼓動が速くなっていく。

自分の英語は、生徒たちにきちんと通じるだろうか。
考えてきた内容を、教案どおりに進められるだろうか。
そして何より、子どもたちは、日本から来たばかりの外国人である私を“先生”として受け入れてくれるのだろうか?・・・

さまざまな不安が、次から次へと頭に浮かんだ。

私の前を歩くケリーの背中からは、迷いのようなものがまるで感じられない。その数歩後ろを、私は教案を握りしめながら、ドキドキする胸を抑えるようにしてついていった。

 

8年生の教室に展示された生徒たちの力作

日本語を教えるために必要だった英語

初めての授業で教えた詳細については、今となってはほとんどうろ覚えである。

「おはようございます」「こんにちは」といった基本の挨拶と、「わたしは〇〇です」という自己紹介や、ひらがなの導入だったことだけは、辛うじて記憶の端にある。

ただ、教室の前に立ったときの、あの緊張感だけは鮮明に覚えている。

名作映画【二十四の瞳】ならぬ、60以上の瞳からの視線が、一斉に私に集まった 😅
目の前にいるのは、英語を母語として話す子どもたち。その子どもたちにノンネイティブの私が、英語を使って日本語を教えようとしている。そう考えただけで、喉がからからになった。

私はおもむろに、黒板に向かってひらがなとローマ字を書き、基本のあいさつ導入から授業をスタートした。

おはようございます。
Ohayō gozaimasu.
わたしはNaoです。
Watashi wa Nao desu.

「OK, everyone, repeat after me. – “Ohayō gozaimasu”」
「Ohayō gozaimasu!」

生徒たちの声が、教室いっぱいに広がった。
元気よく繰り返す子もいれば、初めて耳にするネイティブ日本人の日本語の響きを面白がり、友達と顔を見合わせる子もいた。

そして教室のいちばん後ろには、ケリーが座っていた。
彼女は、私と生徒たちとのやり取りだけでなく、生徒たちのリアクションにも目を光らせていた。
生徒の視線がそれたとき。

私の説明に戸惑った表情を見せたとき。

誰かが隣の生徒と小声で話し始めたとき ーー ケリーは、そのすべてを見ていた。

もちろん、私の英語や授業の進め方も例外ではなかった。

振り返らずとも、視線を落とさずとも、全方位から彼女の視線を感じた。

「今の説明で伝わっただろうか」「何か間違った英語を使わなかっただろうか」と不安になり、何度も手元のノートに目を落とした。

生徒たちの前に立っているのは私だったが、あの教室でいちばん緊張していた“生徒”もまた、私だったのかもしれない。

当時の日本語の授業は、7年生に限らず、上級生のクラスでもロールプレイが中心だったと思う。
挨拶や自己紹介、買い物、レストランでの注文など、その日に使う単語や基本表現を教えたあと、具体的な場面を設定する。

生徒たちは二人、あるいは数人のグループに分かれ、習った日本語を使って自分たちなりの会話を作り、それをクラスの前で、楽しそうに演じた。

後々、授業の進め方に慣れてからは、このロールプレイにずいぶん助けられた。
いったん課題の内容を理解すると、生徒たちは私が細かく指示しなくても、自分たちの発想で会話を膨らませてくれた。

こちらが思いもしなかった設定や台詞を加え、教室中を笑わせる子もいた。
生徒たちがロールプレイを始めると、教室の空気は一変。
あちらこちらから、たどたどしい日本語と、はじけるような笑い声が聞こえてくる。

その段階まで進めば、私はようやく肩の力を抜くことができた。

けれども、そこへたどり着くまでの「導入」が、私にとって最大の難関。
まず、その日に教える日本語がどのような場面で使われるのかを英語のスクリプトで説明し、何を目的としたロールプレイなのかを、生徒たちに完全に理解させなければならない。

日本語を教えるためにオーストラリアへ来たはずなのに、その日本語を教えるには、先に英語を使いこなす必要があった。

用意してきた説明が一度で伝わらず、「どういうこと??」と言わんばかりな、困惑した生徒の表情を目にすると、それだけで頭の中が真っ白になった。

同じ内容を別の英語で説明し直そうとしても、適切な表現がすぐに出てこない😭
私は教案に目を落とし、そこに書いてきた英文を確認してから、知っている単語を総動員してもう一度説明を試みた。
そんなとき、私は何度も思った。

ーーこんなことなら、メルボルンでのESL研修中に、もっと真剣に英語を勉強しておけばよかった。

教室で言葉に詰まるたびに、猛烈な後悔が押し寄せた。
文法の追試まで受けることになったあの頃の私は、その先に待っている本当の試練を、まだ分かっていなかった。
ESLの教室で英語を学ぶことと、大勢の生徒たちを英語で動かすことは、まるで別物だったのである。
そう思っても、もはや時間を巻き戻すことはできない。

ケリーがところどころで合いの手を打ってはくれるものの、目の前には、私の次の指示を待つ生徒たち。

私は手元の教案と生徒たちへ交互に目をやりつつ、つたない英語でも、何とか伝わるまで説明を続けるしかなかった。

私の必死の説明が功を奏したかどうかは分からない。
それでも、生徒たちは何とかロールプレイを終え、授業の締めとなるドリルブックの筆記問題にも取り組んでくれた。

こうして、私の初めての授業は、大きな混乱を起こすこともなく、どうにか最後までたどり着いた。

とある日の7年生の日本語クラス授業風景。今となっては懐かしい!

初授業終了!それでも次の教案づくりは続く・・・

授業を終えて職員室へ戻ると、ケリーから、おおむね次のようなことを言われた。
「おつかれさま。今日の授業で、大体の流れはつかめたかしら。明日は別の7年生のクラスが二コマあるから、今日と同じ流れをしっかり覚えておいてね。あ、そうだわ。あと、8年生のクラスが一コマあるのだけれど、そちらの方は改めて打ち合わせをしましょう。」

どうやら初回は、評価というよりも、これから始まる授業への導入という位置づけだったようだ。
それまで、現場の様子をまるで想像できないまま張り詰めていた気持ちが、ようやく少しだけ緩んだ。

しかし、これで終わりではない。

明日の7年生の別クラスと、次のステップとなる8年生の授業に向けて、帰宅後は再び教案づくり。

今夜もまた、眠れない夜が待っていた・・・

(第10話へつづく)

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